大坂には「錫屋町」があった

「弘化改正大坂細見図(弘化2年/1845年)」
赤い矢印の先に「スヽヤ丁」とある
(現在の谷町3〜4丁目)


<御城(大坂城)の右が北方向>

 

◎井原西鶴の終焉の地は「錫屋町」であった

<生國神社境内の井原西鶴像>

「世間胸算用」で有名な井原西鶴は元禄6年8月10日(享年52歳)に「錫屋町」で亡くなりました。
終焉の地には、辞世の句を刻んだ記念碑が建てられています(平成4年/没後300年忌に建立)。
伊東深水画伯がお持ちであった西鶴の最晩年の手紙には
「所は大坂谷町筋四丁目すゞ屋町ひがしがは、俳諧師西鶴」と記されていたことからも、
「錫屋町」が地名として使われていたことが分かります。
「錫屋町」とは現在の谷町3〜4丁目あたりのことで明治5年まで使われていました。

江戸時代には、大坂に錫職人(御錫師と呼ばれていた)が集まっていたことが分かります。
元禄3年(1690年)発行の「人倫訓蒙図彙」と言う書物には轆轤(ロクロ)を人力で廻しながら、
鉋(カンナ)で錫挽きをいている当時の様子が描かれています。(下記の図)

<右側の人が轆轤棒に縄をかけ人力で轆轤を廻す傍で、
左側の人が鉋で錫器を削っている様子が描かれています>